主日の福音2000,02,13
年間第六主日(Mk 1:40-45)
「だれにも、何も話すな」とは? 

2月13日、いよいよ私たちの教会に「祈りのリレー」が引き継がれてきました。この日のために、十字架、バンナ(垂れ幕)、大聖年のローソクを携えてきてくださった、早岐教会の信徒のみなさまに、心から感謝申し上げます。

さて、すでにご存じかと思いますが、私たちに受け継がれた祈りのリレー期間は、「宣教への熱意を願い求めて」という長崎大司教区の思いが込められています。また、それぞれの小教区も、まかせられた期間内に意向を立てて、祈り続けることになっています。

私たちの教会では、教会新聞「せいトマス」に紹介してありますように、これからの四週間にわたって、一週ずつ意向を持って祈りの集いに集まることにいたしましょう。今週の意向は、「この祈りのリレーで、私たちも「宣教する教会」へ一歩踏み出すことができますように」という意向になっております。

それでは福音に入りますが、今日、イエス様が、重い皮膚病を患っている人をいやして、不思議なことに、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と、厳しく注意しておられます。この点から入っていきましょう。

イエス様の奇跡は、何も分からない人の目には、あっと驚く出来事として映ると思います。奇跡は、イエス様が神様であることを知らせるためのもの、人間を救うご計画の中の、ほんの一部なんですと言っても、そんな言葉はほとんど耳に入らないほど、大きな業に見えるかも知れません。そうなると、イエス様は本当の活動ができなくなってしまいます。イエス様は奇跡を配って回るのが仕事ではないわけです。たとえ奇跡を行わなくても、イエス様の第一の仕事は、人間を罪から、滅びから救ってくださることだったわけです。

たぶん、こうしたイエス様の思いは、ほとんど誰にも伝わらなかったことでしょう。たとえ、病気を治してもらった人が、イエス様は私を救ってくださったと話したとしても、聞いた人は、「うわー、イエス様は奇跡で病気を治したってばい」というふうにしか伝えないのです。イエス様にはそれが目に見えていたので、あえて、「何も話すな」と仰ったのではないでしょうか。

実は私も、イエス様ほどのレベルではありませんが、「誰にも話すなぞ」というような体験をしました。ついこの前、佐世保の九十九島観光ホテルで、連合婦人会結成二十周年記念式典が行われました。貴重な講演があり、昼食会に移っていったのですが、そこでたくさんの余興に混じって、私も場の賑わいにと、一役買って出たわけです。

いちおう、どんな格好をして、何をしたかだけお話ししますが、昼食会が中程まで進む間、ずっと背広を着ていた私が、舞台に上がるときには、派手なスカートをはいて、真っ赤な女性もののセーターを着て、赤いランドセルを背負って、最後に保育園の園児の帽子をかぶり、舞台に出ていったんです。水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」をかけてもらって、それはもう突拍子もないダンスを踊って、みんなの輪の中に入っていきました。

もうこれ以上は、話している私が恥ずかしいので言いませんが、ずいぶん賑わったみたいです。今までは、佐世保地区の中でも、私は顔を知られていなかったのですが、今回のことで、もう自己紹介も、名刺も要らないくらいに顔を売ってきました。

私も楽しませてもらったし、皆さんも喜んでくださったのですが、ただ一つ、あれがすべてじゃないのよ、ということだけは念を押したいわけです。これから佐世保に出かけたときに、どこかで「あっ、このまえ踊ってくださった神父様でしょ。あんときは楽しかったわぁ」と声をかけてもらうかも知れません。それはそれでいいんですが、やっぱりもともとの性格は、人をにぎわすタイプではないので、これからちょっと困ったことになるなぁと思ったりしています。

今日は、イエス様の気持ちがちょっとだけ分かる一日です。イエス様は、「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいないところにおられた」とあります。そりゃぁそうでしょう。奇跡をおこなったのは間違いないのですが、イエス様の場合それがすべてではないわけです。みんながみんな、「奇跡を行ったあの人だ!」と群がってきます。これでは、イエス様もおちおち外を歩いて回るわけにはいかなくなったわけです。

イエス様ほど、レベルの高い話ではないですが、今回はわりかしたくさんの人が、記念式典に参加しました。「恥ずかしかけん、もう言うなぞ」という気持ちは今でもあります。でも半分は、「次は霊名のお祝い日にでも、みんなの賑わせのためにやってもいいかな」という思いもあります。そのあたりが、イエス様の似姿になりきれないところなのでしょうか。

今日からの私たちの大きな務め、「祈りのリレー」を通して、宣教への熱意を願っていきます。その中で、「私はイエス様の派手な部分ばかりを知らせるのではなくて、イエス様の表も裏も、どれも臆せず伝えるんだ」という思いを育てていくことにいたしましょう。イエス様は派手に現れて、派手に消えていったのではありません。むしろひっそりと生まれ、十字架というむごい姿でなくなって、人間の救いを完成されたのです。

今日の奇跡に見られるように、「だれにも、何も話さなくてよい」とイエス様が思っている部分もあります。この一年イエス様があとで困ることになる宣教者ではなく、イエス様にとって本当に助けになる宣教者となることができるように、ミサの中で恵みを願っていきましょう。