主日の福音 2000,02,06
年間第五主日(Mk 1:29-39)
「大聖年」祈りに土台を置いて始めよう 

2月13日、いよいよ私たちの教会に「祈りのリレー」が引き継がれてきます。この日、十字架、バンナ(垂れ幕)、大聖年のローソクを携えて、早岐教会の信徒のみなさんが、やってまいります。

ある意味で、私たち太田尾小教区の大聖年の本格的な始まりは、2月13日からと言ってもいいかも知れません。私たちは次の日曜日から、地区を代表して、祈りのリレーを行い、また間瀬教会では、聖書の通読リレーが始まります。本当に大切な行事がこの日から始まりますので、力強いスタートはここから始まると言ってもよいでしょう。

さて福音では、次の言葉に注目して考えてみたいと思います。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」。こんなに朝早くと思う前に、イエス様の昨日から今日にかけて、一日の行動を振り返ったらよいと思います。

日中(別に書いてはいませんが)には、シモンのしゅうとめの熱病を治しておられます。夕方になって日が沈むと、病人は悪霊に取りつかれたものを治してくださいます。また次の日になると、ガリラヤ中の会堂で、宣教と悪霊退治です。

こうしてみると、一時もイエス様には暇な時間などありません。イエス様は、寝る間を惜しんで、祈りの時間を作られたということになります。それほど、イエス様は人々の世話に忙殺されていたのです。

皆さんのほうがよく知っていらっしゃることかも知れませんが、忙しいという漢字は、心を亡くすと書くわけで、本当に人は、忙しくなりすぎると、自分を失い、仕事を次から次にこなすだけで、あとには何も残らなかったという危険にさらされる可能性があります。イエス様と私たちの忙しいと言うのとの決定的な違いは、「祈りに土台を据えて活動しているか」「祈りをどんな忙しい中でも忘れずにしているか」だと思います。

本当に、イエス様の忙しさは殺人的です。朝暗いうちに祈り始めたイエス様を、弟子たちは捜し出して、「みんなが捜しています」と声をかけます。「イエス様の祈りの時間を守ってやらんかい!」と言いたいくらいですが、悲しいかな、弟子たちは分かっていないのです。そしてそれ以上に悲しいのは、これほどまでにしてイエス様が祈りに土台を置いている姿を見ても、私たちはまだそれを見習おうとしないのです。

どうして?どうして、祈りに土台を置いて事を始めようとしないのでしょうか。それとも、イエス様とは違って、私たちは祈りなしでも、活動を実りあるものにすることができると、高をくくっているのでしょうか。とんでもないことです!

その、「とんでもない!」を、今でも、私を含めて、続けてきているのが、人間なのではないでしょうか。どうぞ、大聖年を神様の前にも実りあるものとするために、「祈りに土台を置いて活動する」この基本を、いやと言うほど私の心にたたき込みましょう。「もうこんなに祈ることはあるまい」なんて考えるような、大聖年でありたいものです。

幸いに、次の日曜日は、祈りのリレーの開始と、「聖書通読リレー」の開始日に当たっています。口で祈るのと、聖書の言葉に思いをのせて祈るという違った形ではありますが、どちらも徹底的に祈るにふさわしい行事と思います。ここで力を蓄えて、この大聖年に実を結ぶことができるよう、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。