主日の福音2000,01,30
年間第四主日(Mk 1:21-28)
イエス様にとっての権威とは
今日の福音朗読で目につくのは、人々がイエス様の教えに驚いたこと、その教えに「権威」を感じ取ったことです。マルコ福音書はこの二つの点を、物語全体を包むように始めと終わりにおいて強調します。
何か「権威」という言葉を聞くと、「上から人を押しつける力」のように聞こえてしまいます。権威を振りかざす、権威を振り回す、そんなことを連想させます。
イエス様の時代はどうだったのでしょうか。当時の人々は、どうも権威ということを正しく理解していたのではないかと感じさせます。イエス様は「律法学者のようにではなく、「権威ある者」としてお教えになった」(22節参照)という書き方からは、本当に権威ある人というのはどんな人なのか、おぼろげながら分かっていたのでしょう。
それは、少なくとも律法学者のような人ではない、もっと違った雰囲気を持っておられるのだという理解はあったようです。自分たちが権威ある者だと思い込んでいた律法学者たちには可哀想ですが。
これだという確信はなかったにせよ、イエス様こそ本物の権威を身に帯びておられる方に違いないと皆が思っているところに、汚れた霊にとりつかれた男がやってきます。彼はイエス様の権威を試すため、権威を悪用するような罠をかけるためにやってきました。ところが、この悪霊のたくらみは、かえってイエス様の権威が正しいものであることを証明することになります。
イエス様は大胆に権威を行使しました。その「権能」を持っていたからです。「黙れ、この人から出て行け」。天の父なる神からいただいたイエス様の権威は、人を滅ぼしたり、押さえつけたりするものではなく、かえって人を活かし、あるいはその人に奉仕するために用いられるものなのです。
汚れた霊は大声を上げてその人から出て行きます。目の前でこの人を救い、この人に奉仕されたイエス様を見た人々は、イエス様こそ本当の意味で権威を与えられた方、すべての人、すべてのものに対する権能を授かっていることを知ったのでした。
イエス様は、権威の本当の姿を示してくださいました。すなわち、人を活かし、神の救いを感じることができるように、その人に奉仕する。これがイエス様流の権威の考え方です。
ついでなので「権能」という言葉もここで触れておくと、福音書をすべて当たっても、二つの使い方しかしておりません。一つは、ご自分が父なる神から権能を「授かった」ということ、もう一つは、これは私の今週の大発見なのですが、イエス様が権能を持ち出すときは、「弟子たちに授けるため」この時しか用いていないということです。イエス様が権能を行使するのは、「それを弟子たちに授ける」時に限られているのです。これは、もともと「権威」が人に奉仕するために与えられるもので、権能はそれを振り回すためではなく、「与える」ためにあるということを暗に教えているような気がします。
とにかく、イエス様のお手本が示されたのですから、私たちはイエス様に見習う必要があります。権威を持って何かに当たらなければならない人がいます。たとえば日曜日の説教は、他の人ではなく、司祭に与えられている権威と言ってもいいと思いますが、それは皆さんを押さえつけたり、何かを押しつけたりするためにあるのではなく、常に皆さんを活かすためにあるものです。いくらきれいごとを並べても、活かすため、仕えるために語られた説教でなければ、「くだらない説教」なのです。
あるいは、役員会で話し合いがもたれ、何かが決まって、皆さんの所にお願いに行くこともあるでしょう。そういうときに、「決まったことですから、決まった通りにしてください」と、押しつけるような態度に出るべきではないと思います。常に、信徒一人ひとりを活かし、皆に奉仕するために権威は用いられるべきです。イエス様が真っ先にそうなされたからです。
「組織」と言うことでも考えるきっかけにして良いと思います。会社では、本店があって、その下に支店があるという形を取っています。それを教会にたとえるなら、ローマが本部で、世界中に各支部があると言うことになるでしょうか。会社であれば、本店の意向は、支店にとっては時には強い圧力であったりするかも知れません。
しかし、教会の組織はどうでしょうか。ローマが世界中の教会の本部であるのは、それはひとえにすべての支部である教区を活かすため、奉仕するために他なりません。教皇様は好んで、ご自分のことを「神の僕たちの僕」と呼びますが、やはりそこにも、仕える者であったイエス様の姿を生きようという姿勢が見られます。
イエス様はかつて、弟子たちに向かって次のように言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。いっさいの権能を授かっているイエス様にとって、ご自分の権威は、徹底して人に奉仕するためのものだったのです。
今日は、本物の権威について考えてみました。一人ひとりが、イエス様の姿から自分の生き方を導いていただけるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。