主日の福音 2000,01,23
年間第三主日(Mk 1:14-20)
大聖年は、神が満たしてくださる「時」 

今日、イエス様は四人の漁師を弟子にされるのですが、ガリラヤで伝え始めた「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉に注意を向けてみたいと思います。

イエス様の時代、「時」という感覚は、どんなことと結びついていたのでしょうか。時計などというものは当然なかったわけですから、「何時何分」というような感覚ではなかったと思います。

たとえばそれは、日の出頃、日没の頃とか、一日をいくつかに分けた「ぶどう園の主人のたとえ」に出てくる時間とか、そんなものだったでしょう。あるいは、春とか、夏とかの季節であったかも知れません。

もう一つの考え方は、これはいつの時代でも使われますが、「出来事」と時を結びつけた考え方です。私たち日本人の言い方でいうと、「時をつかむ」「時を得る」といったことです。

シモンとシモンの兄弟アンデレは、イエス様の呼びかけ「私についてきなさい」という声を聞いたとき、これをチャンスととらえて、「時をつかむ」ことにしたのだと思います。ただ、二人がつかんだ「時」は、私たちが社会生活でつかむ「チャンス」とはまた違ったものでした。

普通、私たちが「時をつかむ」「チャンスを手にする」と言うと、自分の成功や、昇進や、あるいは更に自分に磨きをかけるなど、主に自分の利益になることを指すと思いますが、イエス様が話している「時」を得た人には、自分自身のためと言うよりも、自分を取り巻く周りの人々のために益をもたらしていくことのほうが強いようです。イエス様に呼ばれた漁師たちが、イエス様の弟子になったことで、自分たちのために益になったかは、この世の物差しでは計れないと思います。

ですが、弟子たちが活躍する時代になると、弟子たちと出会った人々は確実にイエス様の救いに触れていき、数多くの人々が救われていきました。イエス様が「時は満ちた」とおっしゃるその「時」は、出世の時とか、自分が何者かになる時を指しているのではなくて、あなたを通して周りの人が神様の救いに触れる、そんな「時」が満ちたのだという知らせだったのではないでしょうか。

こうした「時」のとらえかたを、弟子たちがどれくらい考えていたか、私たちは知る由もありませんが、いわゆる直感で、そうしたことを感じ取ったのではないかと思います。ヤコブとヨハネの兄弟も、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエス様について行きます。この世の出世云々と言うことでしたら、ヤコブとヨハネの決断は明らかに間違っています。ですが、うまい話とかそんなことを抜きにして、イエス様にはついて行くだけの魅力があったのではないでしょうか。

イエス様は「時」に対して、決定的な支配力を持っておられます。今決断すべき時、今行動すべき時。こうした重大な局面を、誤りなく、遅らせることなく私たちに示すことのできるお方です。それ以上のことを、私たちは今日のイエス様の言葉から聞き取ることができます。それは、「イエス様はその日その時を知っているだけではない。『時』をみずから満たし、運んできてくださる」と言うことです。

一年間、繰り返し話すことになりますが、今年は二千年の大聖年の年です。特に神様が、私たちのために恵みを用意してくださって、救いの恵み、解放の喜びに沸く年としてくださった一年です。この世界の時間そのものは、神様がお造りになった尊いものですから、去年でも来年でも聖なる「時」なのですが、その中でも今年は、イエス様が恵みを満たし、それを一人でも多くの人に届けるために、用意して運んできてくださった一年という意味合いがあるわけです。

この、イエス様がおっしゃる「時は満ちた」ということを、今週も、聖地巡礼に結びつけてちょっとだけお話しさせてください。皆さんの中には、聖地巡礼を一度でいいからしてみたいと思っている方がたくさんいらっしゃるのだろうと思います。私も、自信を持ってお勧めいたしますが、さらにあと一言、「時は満ちた」と付け加えたいと思います。

聖地巡礼そのものは、去年でも来年でも、いろんなチラシがまわってくるわけですが、私は、この二千年の大聖年に巡礼されることをお勧めしたいです。きっと、ほかの時では得られない恵み深い巡礼になるだろうと思っております。巡礼に出かけると、いろんな人と出会い、いろんな巡礼への思いに触れることができますが、今年は加えて、皆が二千年の大聖年を意識していますから、どんな旅行者とも心を通わせることができるだろうと思います。

世代の違う老若男女、社会的にいろいろな立場に立っている人々、あるいは外国人とでも、心を通い合わせることができると信じております。ですから、他の年では得られない、恵み深い巡礼になること請け合いです。いかがなものでしょうか。

最後に、もう一度、イエス様の呼びかけを私のものといたしましょう。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と仰っています。イエス様が満たしてくださる時に触れる人は、周りの人々にたくさんの恵みを伝える人に変わっていくことができます。お望みなら、どうか私を、イエス様の満たしてくださる時に触れて、恵みを周りの人に届ける弟子としてくださるようにと、今日のミサの中で祈っていきましょう。今年一年、大聖年の呼びかけのどれかに自分が参加し、心を合わせていくことで、イエス様が私を呼んでくださっていることに気づくことができるように、恵みを願ってまいりましょう。