主日の福音2000,01,16
年間第二主日(Jn 1:35-42)
手を引っ張って、アンデレは導いた? 

今日、アンデレという人の取った態度を通して、私たちも導きを得ることにいたしましょう。朗読を読む限りでは、アンデレははじめ洗礼者ヨハネの弟子だったようです。ところが洗礼者が、「あの人について行きなさい」とも取れることを言ったので、二人の弟子がイエスについて行くことになりました。

私たちの感覚では、曲がりなりにも弟子を持った先生が、「向こうの先生のほうがすばらしいから、あちらに行きなさい」とは、なかなか言わないのではないかと思います。それを、あっさりと言ってのける洗礼者ヨハネは、器の大きさが違うなぁと、あらためて感心させられます。

さてアンデレですが、彼はイエス様について行き、イエス様と一晩過ごし、もう次の日には、自分の兄弟であるシモン・ペトロをイエス様のもとに連れてきて、紹介しました。イエス様と一晩、どんな話をしたのか、全く知る由もありませんが、少なくともアンデレは、自分の兄弟をこの人に会わせない手はない、そう思ったわけです。

アンデレは、イエス様についてなにがしかの確信を得て、人を連れてきました。今の時代であれば、じかに本人と会うまでもなく、たとえばアンデレから詳しく話を聞いて、それで終わることが多いかも知れません。アンデレはそうしたまどろっこしいことはせず、直接イエス様のもとに人を送り込みました。「見れば分かるから」「会えばなるほどと思ってくれるから」そういうつもりだったのかも知れません。

振り返って私たちはどうでしょうか。アンデレが取ったような態度で、周りの人に、キリスト教を知らない人たちに、大胆に振る舞うことができるでしょうか。なかなかそううまくはいかないのではないかと思います。

たぶん、うまくいかないと思う気持ちのほうが強いので、大胆に行動に移れないのだと思います。あるいは自分の中に確信がなくて、後込みするのかも知れません。

もっと、自信を持って、大胆に行動できたらと思います。いっしょに教会に行ってみないか、あるいは、その話だったら、神父さんを紹介するから、相談してみないか。こんな感じで、力強く声をかけられたらいいのに、と思います。

もしかしたら、信徒も、司祭も、この教会という組織自体にも、ぐいぐい引きつけるような魅力が、なくなっているのかも知れません。私たちには、人を引き込むことなど、とうの昔にできなくなってしまったのでしょうか。

私自身、確信を持って、何か皆さんに勧める物があるかと考えてみました。二つ紹介したいと思います。

一つは、クルシリオです。これは信徒の錬成会と言った感じなのですが、クルシリオに行ってどんなことをするかは、先輩からの言い伝えで、話さないようになっていると思います。それでも、「行っただけのことはあるから、ぜひ行っておいで」「行けば分かるから、きっと役に立つから」と言って、けっこう力強く勧めてくださいます。

今どき、内容を聞かずに、何かに飛び込むということはあまりしませんが、それでも、このクルシリオはお勧めだと思います。信仰の力強い証し人になる、良いきっかけになることでしょう。すでにクルシリオに参加された方は、今日のアンデレのように、人をイエス様のもとに力強く導くものを持っていると言うことを覚えておいてほしいと思います。

もう一つは、聖地の巡礼です。皆さんすでにご存じのことですが、私は、チャンスをいただいて昨年八月、イスラエル巡礼に行くことができました。地区集会でお話ししたとおり、ある程度のことは紹介することで人に伝えることができますが、本当のところは、やはり実際に足で歩いてもらわないと分からないということがあります。

イエス様の生誕の地を歩き、イエス様が十字架を担い、亡くなられた場所をこの目で見、確かめるときに、自分の心の中に涌いてくる喜びとか感謝の気持ちは、なかなか言葉で伝えられるものではありません。同じ場所に立ち、同じ空気を吸ってみて、何かが分かるということもあるのです。

そこで、今日は特に、この聖地巡礼をお勧めいたします。日程としては、6月14日から九日間の日程の巡礼に出かけてみてはいかがでしょうか。ちょうどその期間中に、「国際聖体大会」がローマで開かれまして、教皇様にもお会いできるものと思います。

もちろん、こうして言うだけならただですが、ただで行って来なさいとだけ言うつもりはありません。今回私は、覚悟を決めました。聖地巡礼基金を作りますので、人数に応じて参加される方の交通費に使っていただこうと思います。基金のもとになるは、私は今年黒島という教会で黙想会をさせていただくことになっておりますので、ここでの「黙想会謝礼」を当てたいと思います。

もし、参加者が一人なら、「巡礼基金」の配当は一人です。三人なら、分配すると言うことになります。あまり考えてはいませんが、「もしも」誰もいないということになれば、幸いにも基金は私の財布に納まることになります。これは最悪の場合ですので、皆さんふるって、応募してください。

今日は、アンデレの姿を通して、大胆にイエス様に人を連れていく姿を学びました。私たちの中には、じつは人をイエス様のもとに導く力を備えている人がいます。今持っていないと感じる人でも、いろんな形でこれから持ち合わせることもできます。私も、アンデレのように、あの人、この人を導く使徒となることができるよう、ミサの中で恵みを願ってまいりましょう。