主日の福音2000,01,09
主の洗礼(Mk 1:7-11)
洗礼は、人間を特に選ばれたしるし 

今日、主の洗礼のお祝い日なのですが、午後から私は、造船所に行きまして、船の祝別式を行います。ここの造船所での船の祝別式は、二年前に引き受けたのが一回目だったのですが、その時は担当の方もよく分かっておられなくて、船長の依頼を私に伝えるときに、「船に洗礼を授けてほしいのですが」と電話をかけてきたことが思い出されます。今回は「洗礼を授けてください」とまでは言いませんでしたが、まだまだ教会が「清め」の場に出ることは、社会的には珍しいことなのかも知れません。

もちろん、船に洗礼を授けることなど、あろうはずがありませんが、それもよくよく考えると、神は洗礼の恵みを、人間のほかどんな生き物にも用意されなかった、それほど人間のために特別の配慮をして、私たちを愛してくださっているということの動かぬ証拠と言えるでしょう。

「五感」ということで考えると、ほかの動物の感覚は、人間のそれよりもはるかにすぐれているものが少なくありません。犬の嗅覚は、人間の何百倍とも言われますし、大空を飛び回りながら、獲物を追う鳥の視力に、人間はかないません。あるいは、肉食動物のかすかな音にも敏感に反応する生き物だっています。こうした個々の「感覚」だけを取り上げると、人間よりもほかの動物により多くの恵みを与えてくださったと言っていいくらいです。

ですが、それを踏まえた上でも、神様は人間をほかのすべてにまさってこよなく愛しておられます。神様はほかのどの生き物にも、洗礼の恵みを用意しませんでした。神の子・神の養子となる恵みにふさわしいとされたのは、人間だけだったのです。

洗礼の恵みをことのほか強調しているように思われるかも知れませんが、私は、この点はいくら強調しても足りないと思っています。神が、ご自分のあふれる命を分け与える相手として、人間を選んでくださった。洗礼に導かれた人は、さらに多くの恵みに門が開かれていきます。こうして神はありったけの恵みを人間に注いでおられるわけですから、神にとって「ひいき」の相手なのです。

さて「主の洗礼」の祝日を今年の「大聖年」ということに結びつけて考えてみましょう。教会が、「あがないの大聖年」として定めた今年2000年は、神様が慈しみ深い方であることを、すべての人が体験できる年と言ってよいでしょう。

たとえば、旧約聖書レビ記によると、「ヨベルの年」と言われる年があって、土地・奴隷・借金などの負債から解放される年が五十年に一度やってきました。教会はその例に倣って、1300年から、たとえば「罪」に対する「罰」を解く「免償」(めんしょう)というものを与えてきました。罪の罰は、誰もが関わる問題でしたから、すべての人に神の解放を知らせる大きなしるしとなったわけです。

ここで私は考えるのですが、神の慈しみは、人間だけにではなく、おそらくすべての生き物に、もっと言えば万物に与えられてしかるべきものではないかと考えています。あらゆる生き物に対して、神は解放を告げ知らせ(どういった言葉で「知らせる」かは分かりませんが)、すべての生き物が解放の喜びにわく、それが、この大聖年の恵みの一つだと思います。

神のいつくしみに触れて、喜びにわく。こうしたことは、すべての生き物にとって可能なことでしょう。ですが、私たちは、さらに一歩進んで、今年一年の過ごし方を考えてみる必要があると思います。ほかの生き物にはできない過ごし方が、人間にはできるからです。つまり、「この一年を、聖なる年にしていこう」ということです。大聖年の恵みに、一年間浴していくだけでなく、自分たちのほうから、この一年を何かの形で聖なるものにしていこうという努力です。

私は、今年一年のうちに、すべての聖書の頁に目を通す「聖書通読リレー」を計画しております。「神の言葉」と言われる聖書に、たとえば日曜日に来てちょっとずつ触れるのではなく、ある一定の日数で、すべての箇所に触れるという計画です。かなりしんどいかも知れませんが、皆さんの参加を大いに期待しております。

正直な話、旧約聖書・新約聖書のすべての箇所に、一生涯で一度でも目を通すという機会はなかなか見つけられないのではないでしょうか。思ったこともないという方もおられるでしょうし、思っていても、なかなか切り出そうということもなかったかも知れません。今回、70日ほどの日程ですべての聖書に目を通す企画を、春と秋の二回開きますので、どちらか都合のよいほうに参加していただけたらと思います。

「聖書通読リレー」に私がこだわるのは、この一年を、聖なる年にできるのは私たち人間だけと言ったこととつながっています。シャワーのように、あるいは滝のように聖書のみ言葉に触れて、一年を聖なるものにしたいと思っているわけです。莫大な時間をおささげしていただくことになりますが、私は、「聖なるおささげ」だと思っていますので、おおいに、この一年を聖化できる取り組みだと思っております。

もちろん、これがすべてではありませんので、ほかにも、いろいろな方法を検討して、大聖年をふさわしく生きることができるよう、皆さんもどうぞ知恵を貸してください。すべての人にとって、大聖年が恵みの年となりますように、今日のミサの中で引き続き祈ってまいりましょう。