主日の福音 2000,01,02
主の公現(Mt 2:1-12)
羊飼いは幼子を見た 

新年の挨拶をしてまだ日も変わっていないうちに、御公現のミサをささげておりますが、よく考えてみたら、今日のミサは明日の早朝にまわせばよかったかな、明日太田尾・間瀬両教会で時間をずらしてミサをすればよかったかなというのが、ちょっと頭をよぎっています。

一通り新年の行事を終えて、そういえば初夢を見てないなぁと思い、昼寝をしたのですが、なーんにも夢は見ませんでした。今日の三人の博士は、夢でお告げを受けたようですが、なかなか簡単にお告げなんてあるもんではないようです。

さてこのミサは主の御公現をお祝いするミサですが、それは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった」イエス様が、異邦人である三人の博士から礼拝をお受けになることで完成されました。ここでマタイは、ちょっとした言葉遣いの工夫をしています。お生まれになったイエス様を、「ユダヤ人の王」と呼んでいるのです。

あとで、聖書をちょっと手にとってほしいのですが、「ユダヤ人の王」という言葉遣いは、幼子イエス様に向けて使われているのがむしろ例外のほうで、あとはすべて「十字架に向かっていくイエス様」「十字架の場面でのイエス様」に向けられています。

私が何を言いたいかといいますと、マタイは、最初から、幼子イエス様を、十字架に向かう方、すなわち、「罪から人々を救うために」十字架に向かわれる方として紹介しようとしているということです。言葉のちょっとした工夫で、確かにイエス様は「王」としてお生まれになったのですが、それは、ヘロデが恐れていた「自分の政治的権力を脅かす王」ではなくて、「民を罪から解放し、自由にする真の王」としてお生まれになったのです。

ヘロデは恐れましたが、三人の博士は幼子の誕生を喜びました。これまで誰も、人間を罪から解放する方は現れなかったのです。それが、今ここにお生まれになり、この方を見て礼拝する恵みにあずかったのです。