主日の福音 2000,01,01
神の母聖マリア(Lk 2:16-21)
「母」になることは神の恵み 

皆さん、新年明けましておめでとうございます。紀元2000年をミサの中で迎えたことは、皆さんおひとりおひとりにとって、思い出に残るのではないでしょうか。

今年は、思い切ってこの時間にミサをささげ、一年のしめくくりと、「神の母聖マリア」の守るべき祝日のミサをささげることにいたしました。今年は、この時間にミサをささげる教会が結構あるらしくて、少なくとも滑石教会、浦上教会は、同じ頃にミサをささげると聞いております。私は、てっきりこの間瀬教会ぐらいのものだろうと思ってひとり喜んでおりましたが、そうでもないようです。

この時間をあえて選んだのには、ちょっとした訳があります。昨年、12月31日にミサをささげながら、「今日のミサではなくて、明日のミサが守るべき祝日のミサになるけれども、はたしてみんな、あらためて来るのだろうか」そのことがずっと気になっていました。

もしかしたら、去年のような時間の組み方をしたら、間瀬の皆さんにはちょっと負担が大きくなるなぁと思いまして、今回のような時間の組み方にしたわけです。眠たいのが玉に瑕ですが、私のほうの心配は、ぐっと軽くなりました。

さて、神の母聖マリアのお祝いに当たり、私は次のようなことを考えてみましたので、皆さんに紹介したいと思います。

聖書がマリア様を登場させるときに、「おとめマリア」として紹介するのは、ルカが一度だけでして、あとは「母マリア」という形がほとんどです。私がここで言いたいのは、マリア様のすばらしさは、おとめとしても十分すばらしいのですが、母マリアとして、マリア様はご自分のすばらしい面を最高に開花させた、ということです。

「母」であるからには、「誰かの母である」ということを意識させます。言うまでもありませんが、マリア様はイエス様の母です。つまり、イエス様との関わりの中で、マリア様のすばらしさはいつも引き出されるということなのです。

いくつかの例を紹介しましょう。今日の朗読箇所では、羊飼いたちが飼い葉桶に寝ている乳飲み子をさがしあてて、広く人々に幼子のことを知らせに行きます。そしてマリア様は、その時のことを心に納めて、思い巡らしていたとあります。マリア様の思慮深さは、幼子イエス様との関わりの中で、まず発揮されたのでした。

また、婚礼の席で、水をぶどう酒に変える奇跡があったとき、マリア様は「ぶどう酒がなくなりました」とだけ言って、あとはイエス様が出来事をうまく納めてくれる、そう思って、ほかの誰もまねすることのできない、イエス様に対する絶対的な信頼の心を見せてくださいました。これもまた、神であるイエス様との関わりの中で発揮された、マリア様の徳でした。

さらに、イエス様が十字架に磔にされる場面で、イエス様と苦しみをともにし、私たちであれば希望を失ってしまう場面でも、イエス様への希望を失わなかった姿は、マリア様の「強さ」を感じさせます。マリア様おひとりでは、とてもあのような強い信仰を保つことはできなかったでしょう。これもまた、イエス様との関わりの中で与えたれた恵みなのです。

こうしてみると、マリア様が輝くのは、多くの場合、神であるイエス様との関わりにおいてであることが分かります。神の母聖マリアをお祝いする意味は、こういうところによく現れているのではないでしょうか。

私たちも、神の母聖マリアから、私たちの模範をいただくことにいたしましょう。子供を抱えたお母さんがたは、子供を通してご自分の徳が増し加えられることを、学びたいものです。ときとして私たちは、今の置かれている生活と全く違った生活を夢見たりしますが、それがもし今の生活から逃れたくてのことであれば、今日お祝いしているマリア様から、今の生活の中で、今置かれている環境の中で、神はあなたを成長させ、徳に進ませようとしておられる、そういうことを学んでほしいと思います。

今年一年が、神の祝福に満ちた大聖年となるよう、特に聖母マリアの取り次ぎを願いながら、このミサを進めてまいりましょう。