主日の福音06/12/24
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
主の天使が羊飼いを導いた

主の降誕おめでとうございます。待降節を通して待ち望んだこの喜びの日を、「生まれた」というその場面に特に注目して考えてみたいと思います。

救い主が、マリアからお生まれになりました。「生まれること」それ自体が神秘的な出来事です。お産が始まる直前まで、マリアの胎内の命はマリアとだけつながっていました。生まれた瞬間であっても、へその緒を通してマリアとだけつながっていると言っても良いでしょう。

ところがへその緒が切り離されたとき、新しい命は母親一人とのつながりではなくなります。周りに集まっている父親、また親戚たちとのつながりがこの時から始まります。マリアから生まれた幼子には、養父ヨセフとのつながりが始まりました。

親戚は周囲にいませんでした。親戚筋の人がいたかも知れませんが、出産の時には近くにいませんでした。代わりに、主の天使に促されて羊飼いたちが出来事を確かめに来ます。もしも主の天使の言葉がなければ、羊飼いが見るのは一人の夫婦に授けられた幼い命に過ぎなかったはずです。また、もしも生まれた幼子が救い主でなければ、私たちが今見ているのは「マリアとヨセフの子」を見ているだけなのです。

事実はそうではありません。布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされている幼子は、紛れもなく救い主なのです。一組の夫婦の子供であるだけではなくて、皆さん一人ひとりに関わりのある方を、今馬小屋に見つけたのです。私たちは例外なく神からの救いを必要としています。ですから今お生まれになった救い主は、私たちにとってなくてはならない方なのです。

羊飼いは、主の天使の説明を聞き、導かれて幼子を探し当てます。今日私たちの教会では説教の後に子供の洗礼式が控えています。この子も、今日主の天使に導かれて馬小屋にいるイエス・キリストを拝みに来たのです。今日皆さんの前で洗礼を受けて、これから神さまの子供、イエスさまの仲間に加えてもらいます。

見えない形では、今日のこの日を迎えるまで主の天使が導いてくれたと言って良いでしょう。見える形では、今日洗礼を受けること同じ小学校の友だちが、今年の四月から積極的に教会学校に誘ってくれました。どの子と限定することはできなくて、ここに来ているすべての小学生中学生が、新しい仲間を連れてきたのです。救い主誕生の出来事に主の使いが大きな働きをしていたように、今日の洗礼の出来事に一緒に参加している小学生中学生は大きな働きをしてくれたのです。

始まりは突然にやってきました。いつも教会学校に来る子供たちが私の知らない子供を連れてきてこう言いました。「神父様、新しい子を連れてきたけん。この子のお父さんもキリスト教ばい。勉強させて、洗礼ばさずけてくれんね」。何を偉そうにと思いましたが、中田神父が訪ね歩いて見つけてきたわけではないので、ここは教会学校に誘ってくれた小学生に逆らうこともできません。

それじゃあ祈りを3つ、「主の祈り」「聖母マリアへの祈り」「詠唱」を覚えることから始めようかと声をかけますと、小学生の一人が今から勉強が始まるこの子にこう言うのです。「最初は祈りが速くて言いきらんけども、すぐ慣れるけん安心せろよ。何回も練習すればこれくらい速く言えるようになるけんな。天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように」。

三年前はお前もろくに言いきらんやったくせに、よくまぁ大口たたいてと内心は思ったのですが、自分にできる範囲のことを精いっぱいお世話している様子を見ていると、宣教活動って大人だからできるとか子供だからできないとかそういうものでは決してなくて、とにかく教会に連れてくること、とにかく司祭に紹介すること。それができればその人は大人だろうが子供だろうが立派な宣教の担い手なのだと感じたのです。

恥ずかしながら中田神父も一年に何人も教会に導くことができないでいる中、大胆な行動を目の前の子供が成し遂げているのを見て可笑しくもあり感心もするしで、今年のクリスマスまでの期間は子供たちに本当に頭が下がりました。

今日この子は洗礼を受けて、イエスのまことの友だちになります。教会に来て皆と一緒に祈り、聖書の言葉を聞き、ほかの小学生に言わせると漫才のような主任司祭の説教を聞き、キリストのからだを食べ物としていただくのです。これまでは祭壇に近づいても祝福のために頭に手を置いてもらうだけでしたが、これからは堂々と聖体拝領もすることができるようになります。

まだ勉強が十分とは言えませんが、羊飼いを救い主のもとに導いた主の天使のような働きをしてくれる友だちが周りにいるので、これからも一緒に少しずつ神さまのことを学び、成長してくれるはずです。

巡り合わせが良かったと言うこともあるかも知れません。けれども、導く人がいなければ、羊飼いはイエスを探し当てることはできませんでした。三人の博士も、星の導きがなければイエスを拝むことはできませんでした。私たちの教会にも、導く人がいれば洗礼を受けて神の子供、イエスの友だちになれる大人や子供がまだいるのではないでしょうか。

この説教の後に続く洗礼式を通して、導く人がいれば、こんな大きな喜びが教会に与えられるのだということを実感しましょう。あなたが導く人になって欲しい、私のもとに新しい友だちを連れてきて欲しいと、馬小屋のイエスは私たちに声をかけていると思います。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(早朝)
(ルカ2:15-20)
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