主日の福音2002,1,6
主の公現(マタイ2:1-12)
すべての人を導く「星」
みなさんは直感とか予感とか言うものをどの程度に考えているか分かりませんが、私は案外大切にしています。もちろん信じるのは神様だけですが、何となく感じるものに、結構意味を見いだしたりするタイプです。
土曜日の話なんですが、間瀬教会の朝ミサを終えて太田尾に帰る途中、何となしに空を見ていたら、星が一つ輝いているのが見えました。「あー、明けの星って、ああいうのを言うのかなあ」「そういえば、最近この時間に空が明るくなってきたよねえ」なんてことをシスターと話しながら帰ったわけです。
何の気なしに星が目に付き、星の話になったわけですが、今日の福音は、三人の学者が星を見つけ、導かれて、イエス様を拝む喜びを与えられたという話でした。星なんて、空が晴れていればいつでも見えているもの、昨日もその前も、おそらく星はそこにあったわけですが、ちょうど今日の福音を考えるときに限って、星が目に付き、星に思いを馳せたのでした。こういうのって、私は結構結びつけたがるんです。
そうしてみると、日本人が好む「初夢」というものも、気分の問題だけではないのかも知れません。実際にヨセフがマリア様を受け入れるかどうかは、「夢」でお告げがありましたし、今日の学者たちも、ヘロデのところへ帰るなと、「夢」でお告げがあったとなっています。イエス様を拝んだ後の初夢、といってもいいかも知れませんね。
ちょっとひねりすぎかも知れません。けれども三人の学者たちも、毎日毎日星が見えている中で、二千年前のある特別な日に、今までとは違った思いを星に感じたのではなかったでしょうか。彼らは、イエス様に出会う前から、「学者」でした。きっと東の国では、多くの人から尊敬を受け、人々から頭を下げられる人物であったかも知れません。けれどもその学者をもってしても、何か特別なことを感じさせる「星」を見つけたのでした。
三人の学者は、はるばるイエス様を拝みに来ました。彼らは、最初から「拝みに来た」のでした。東の国では学者であっても、尊敬を受けていたとしても、そのことに慢心することは決してなかったのです。空に輝き、全世界から見える一つの星、すべての人が真に「礼拝する」ことのできるお方がどこかにいらっしゃるはずだ。学者も、この世の王も、謙虚に身をかがめる方を見たい、礼拝したい。その一念でやってきたのです。
ついに、すべてのものの王、イエス様に出会いました。イエス様は、言葉ではなく、学者たちの心に直接働きかけ、彼らを照らします。イエス様と出会い、学者であっても謙虚に身をかがめるお方がおられることを知った彼らは、今までとは一枚も二枚も変わることができたのでした。
飛ぶ鳥を落とす勢いという言い方がありますが、そういう人でも自分を見失ってしまうと、転落してしまうものです。常に自分よりも上にあるものをわきまえてこそ、真に偉大な人間と言えます。東の国からやってきた学者たちは、自分がどんなに尊敬される人間であっても、唯一のお方、すべての人に礼拝されるお方を知って、ますます偉大な学者になったのではないでしょうか。
占星術の学者たちは、私たちに教えてくれています。学者が、真の偉大な学者になるためには、自分が謙虚になることを知るべきである。そして、真に偉大な学者となるために、イエス様の前に身をかがめ、礼拝するのだと。私たちも、その道で本物になるために、イエス様の前に身をかがめるべきではないでしょうか。あなたが極めようとしている道の最高の先生はイエス様で、イエス様に謙虚に教えを請うべきではないでしょうか。
空に輝く星は、その場に居合わせた人であれば誰でも目にすることができます。けれどもその星は、誰もが見ているのに、多くの人の目には隠されているのです。東の国の学者たちは、星に導かれて真の礼拝すべきお方を見つけました。そして礼拝すべきお方に、喜んで持ち物の中から最高のものを献げました。私たちはどうすべきでしょうか。
すべての人の、すべてを導く「星」としてイエス様がおいでくださいました。私たちも、良き人生を全うするために、イエス様の前に身をかがめましょう。その道を極め、真の意味で偉大なものとなるために、イエス様を礼拝しましょう。今日イエス様は、誰もが目にすることのできる「星」として、デビューしてくださいました。